誠との会話
先日、中高の親友の誠と会ってきました。その時の会話から思ったことです。
僕はガッキー(新垣結衣さん)が大好きです。だからガッキーって「可愛いよね」って話をしました。すると、誠は「別に可愛くない」って言うんですよ。その後長い会話があったんですがその時に誠はこんなことを言ったんです。
「お前を含めた大勢はガッキー、新垣結衣という記号を消費しているだけだ。」と。
割と典型的と言うか、“そういうことを言う人は居るな~“と言った感じですよね。この様な主張はいろんなものに応用できて、世の中の人が無批判に信じている、実は検討の余地があるのにある種、定義で絶対的な尺度の様に扱われ、思われていることに一石を投じる時などに良く使われている気がします。
僕は、政治的、学問的な領域ではこの様に思慮深くあるべきだし、無批判であってはならないと思います。
でも自分は、<誰誰が好きだ>とか<誰誰が可愛い>とか<誰誰が面白い>とか、どう抽象化すればいいかわからないけど、より感覚的?なものについては、一度立ち止まり、構造について考察する思考よりも、第一印象、自分の第六感?みたいなものを大切に生きたいな。
時には、時の潮流に流されず我が道を行くことも大切だけど、迎合してはじめて見えるものもあるからね。ずっと外から見て、潮流をやすいものの様に扱うのも、無批判にずっと迎合し続けることもどちらも好ましくはなくて、そのバランスを探り続けるしかないんだろう。
でも、潮流に乗ると楽だし結構楽しいよね。“自分”を持ちながらも、みんなと楽しさを共有出来る人間でありたいな。
経験を語ってもらうっていいよね
僕は昔からおじいちゃん、お父さん、部活のOB、近所のおじさん…など、自分より長く生きている人が今までに経験したこと、その時の感覚や、それを経て考え、得たことを聞くのが好きなんです。
過ぎてしまったことは二度と経験できないし、経験したことを時を経て回想しながら伝えようとすると、感覚が色濃く反映されるんですよね(一緒に旅行をしても振り返り方が違うように)。そういうものを享受できるのが幸せなんです。
世間は年寄りの方が昔の基準で今の若者に文句を言ったり、不遜な振る舞いをする人を老害と呼び、疎ましく思っているように感じます。でもそれは、とても愚かなことだと思います。
現在、時を経てば万物が深化され、より良いものになる様な風潮があり、まだ20年も生きていませんが、ここ5,6年でより強くなっていると感じます。僕はこれが必ずしも正しいとは思いません。
できるだけ多くの経験をして、比較検討して、自分自身で考えることが"今"が正しいのかどうか初めてわかると思います。
その考える材料として、経験が必要だと思っているから、僕のしがない、ありきたりな経験も、誰かの助けになればいいな、なんて思ったり思わなかったり。
結局は自己満足ですね(笑)。それでも誰かの何かになれば、なんだか嬉しいです。
p.s.
できるだけ父母、祖父母と話しておくことは重要だよね。
文が拙くてごめんなさい🙇
どうやったら読みやすい文章になるかこれから学んでいきます。